17歳、いつも川辺の絵を見ていた
・
蛍が拳にとまった。
橋の欄干から腕を伸ばして4分後のことだった。
「ねぇ、見て」
そう言った瞬間に、蛍は光を失い手を離れていった。
川辺に三つの光の点を見つけた。
信号のように交互に光り合いながら、それは四つにも六つにも増えて、光は鈍くなり、やがて夜に溶け込んでいった。
光が消えてからも、暫くの間しゃがみこんで、欄干の隙き間から夜の川辺を、見下ろしていた。
先ほどから、隣の人もそうしていた。
履き慣らした下駄に、丸い眼鏡をかけて、質素な風貌である。
「何を見ているの」
山口さんは下駄を履き直しながら言った。
「蛍が寝ているところを」
私が答えると、君らしいと言って満足そうにしていた。
「君らしいって言い方、なんか嫌」
私がそう言う隣で、山口さんは何も言わずに、髭を触っていた。
水面の反射は形を滑らかに変えていく。
降り注ぐ川の音と、黒く美しい影に吸い込まれそうだった。
「これをそのまま描けたらいいのに」
鉛筆をあてがう様に指を立てた。
「さ、行こう」
山口さんが、思い出したように呟いた。
立ち上がるときに、遅れて光った者がいたような気がした。
「あ、山口さんみたいな蛍がいた」
「私みたいな蛍って、どういうこと」
山口さんは、眼鏡に手をかけながら言った。
「眼鏡をかけているとか」
「ちがうよ」
「かっこいいとか」
「ちがうよ」
「そうなの、ちがうの」
「うん、ちがう」
山口さんは、ゆっくりと下駄の音を鳴らしながら歩いた。
私は、足元を見ながら草を避けて歩いた。
「あと半年もすれば受験だ」
何も描けない、消してばかりのキャンバスを思い出していた。
私が立ち止まると、山口さんも立ち止まった。
「大丈夫だよ、描けているよ」
「嘘、描けてない」
石を蹴って山口さんに飛ばしたが、暗がりに音もせずに消えた。
山口さんは、私の絵の先生の助手をしている。
美術大学の六年生だった。
単位が足りなくて卒業できないという他に、理由があって休学をしていた。
「山口さんは、なんで絵を描くの」
蹴りやすそうな石を見つけて歩道に蹴り上げた。
山口さんの下駄に、こつんと当たった。
「理由なんてない」
山口さんは下駄をじゃりっと音をさせて石を蹴ってきた。
「山口さんは苦しくても、なぜ描くの?」
もう一度、足元の石を蹴った。
「君は苦しいの?」
やや石が斜に転がって足もとに来た。
しばらく二人で押し黙った。
「山口さんは、どうして彼女がいないのか」
「いるよ」
「そうなの」
石を蹴り返したが、大きく道を逸れて見えなくなった。
「君はどうして私に厳しいんだ」
山口さんは髭を触りながら、笑った。
ボロボロの自転車で、山口さんが彼女に会いに行く姿を想像した。
かっこわるいな9割、原因不明の苦しさ1割。
二人で歩きながら、同じ場所に向かっている。
途中、山口さんは自動販売機でコーヒーを買った。
一口飲んで、私に飲むか、と差し出した。
私は青ざめて、首を大きく横に振った。
「苦くてコーヒーは嫌いだったけ」
山口さんは、あの蛍のように、ズレていた。
教室の蛍光灯の光が見えた。
二階の窓が開き、先生がタバコを吸おうとして顔を出したのが見えた。
私は突然、走り出したくなって、スタートをきった。
追い抜いていく私に驚きながら、山口さんも走り出した。
月に浮かぶような先生のシルエットが、全速力で走る私たちに気づいて微笑んだように見えた。
「いつまでもさぼってんなよ。蛍は、居たの?」
先生の声は先ほどまでの川の音をかき消し、よく響いた。
気づけば、私たちは全速力になっていた。
「どうして苦しいんだ、何もかも」
私がそう声に出したと同時に、山口さんの下駄が脱げて、歩道に転がった。
山口さんも転がった。
私は、下駄を拾って走り抜けた。
息を乱し膝をつくと、制服のスカートがコンクリートに擦れるのがわかった。
片手に握った下駄が、カランと澄んだ音を立てて転がった。
顔を上げると、教室の入り口に貼った絵が見えた。
山口さんの描いた、川辺の絵だった。
暗闇の中で青々と光る絵だ。
私の好きな人の絵が、徐々に瞳の中で滲んでいく。
溢れた涙を、拳で何度も拭った。
何度も何度も拭った。
後ろを振り返ると、山口さんが夜の道に落ちていた。
「思春期だね」
そう言って笑っていた。私は山口さんに当たらないように下駄を投げつけた。
暗闇の中で煙草に火をつけているのがわかった。
蛍よりも、浅はかなその光を見つめた。
先生がドアを開けた。
どうしたの、その黒い顔、と笑った。
ふと、拳を見ると、デッサン鉛筆がこすれて真っ黒だった。
蛍が拳にとまった。
橋の欄干から腕を伸ばして4分後のことだった。
「ねぇ、見て」
そう言った瞬間に、蛍は光を失い手を離れていった。
川辺に三つの光の点を見つけた。
信号のように交互に光り合いながら、それは四つにも六つにも増えて、光は鈍くなり、やがて夜に溶け込んでいった。
光が消えてからも、暫くの間しゃがみこんで、欄干の隙き間から夜の川辺を、見下ろしていた。
先ほどから、隣の人もそうしていた。
履き慣らした下駄に、丸い眼鏡をかけて、質素な風貌である。
「何を見ているの」
山口さんは下駄を履き直しながら言った。
「蛍が寝ているところを」
私が答えると、君らしいと言って満足そうにしていた。
「君らしいって言い方、なんか嫌」
私がそう言う隣で、山口さんは何も言わずに、髭を触っていた。
水面の反射は形を滑らかに変えていく。
降り注ぐ川の音と、黒く美しい影に吸い込まれそうだった。
「これをそのまま描けたらいいのに」
鉛筆をあてがう様に指を立てた。
「さ、行こう」
山口さんが、思い出したように呟いた。
立ち上がるときに、遅れて光った者がいたような気がした。
「あ、山口さんみたいな蛍がいた」
「私みたいな蛍って、どういうこと」
山口さんは、眼鏡に手をかけながら言った。
「眼鏡をかけているとか」
「ちがうよ」
「かっこいいとか」
「ちがうよ」
「そうなの、ちがうの」
「うん、ちがう」
山口さんは、ゆっくりと下駄の音を鳴らしながら歩いた。
私は、足元を見ながら草を避けて歩いた。
「あと半年もすれば受験だ」
何も描けない、消してばかりのキャンバスを思い出していた。
私が立ち止まると、山口さんも立ち止まった。
「大丈夫だよ、描けているよ」
「嘘、描けてない」
石を蹴って山口さんに飛ばしたが、暗がりに音もせずに消えた。
山口さんは、私の絵の先生の助手をしている。
美術大学の六年生だった。
単位が足りなくて卒業できないという他に、理由があって休学をしていた。
「山口さんは、なんで絵を描くの」
蹴りやすそうな石を見つけて歩道に蹴り上げた。
山口さんの下駄に、こつんと当たった。
「理由なんてない」
山口さんは下駄をじゃりっと音をさせて石を蹴ってきた。
「山口さんは苦しくても、なぜ描くの?」
もう一度、足元の石を蹴った。
「君は苦しいの?」
やや石が斜に転がって足もとに来た。
しばらく二人で押し黙った。
「山口さんは、どうして彼女がいないのか」
「いるよ」
「そうなの」
石を蹴り返したが、大きく道を逸れて見えなくなった。
「君はどうして私に厳しいんだ」
山口さんは髭を触りながら、笑った。
ボロボロの自転車で、山口さんが彼女に会いに行く姿を想像した。
かっこわるいな9割、原因不明の苦しさ1割。
二人で歩きながら、同じ場所に向かっている。
途中、山口さんは自動販売機でコーヒーを買った。
一口飲んで、私に飲むか、と差し出した。
私は青ざめて、首を大きく横に振った。
「苦くてコーヒーは嫌いだったけ」
山口さんは、あの蛍のように、ズレていた。
教室の蛍光灯の光が見えた。
二階の窓が開き、先生がタバコを吸おうとして顔を出したのが見えた。
私は突然、走り出したくなって、スタートをきった。
追い抜いていく私に驚きながら、山口さんも走り出した。
月に浮かぶような先生のシルエットが、全速力で走る私たちに気づいて微笑んだように見えた。
「いつまでもさぼってんなよ。蛍は、居たの?」
先生の声は先ほどまでの川の音をかき消し、よく響いた。
気づけば、私たちは全速力になっていた。
「どうして苦しいんだ、何もかも」
私がそう声に出したと同時に、山口さんの下駄が脱げて、歩道に転がった。
山口さんも転がった。
私は、下駄を拾って走り抜けた。
息を乱し膝をつくと、制服のスカートがコンクリートに擦れるのがわかった。
片手に握った下駄が、カランと澄んだ音を立てて転がった。
顔を上げると、教室の入り口に貼った絵が見えた。
山口さんの描いた、川辺の絵だった。
暗闇の中で青々と光る絵だ。
私の好きな人の絵が、徐々に瞳の中で滲んでいく。
溢れた涙を、拳で何度も拭った。
何度も何度も拭った。
後ろを振り返ると、山口さんが夜の道に落ちていた。
「思春期だね」
そう言って笑っていた。私は山口さんに当たらないように下駄を投げつけた。
暗闇の中で煙草に火をつけているのがわかった。
蛍よりも、浅はかなその光を見つめた。
先生がドアを開けた。
どうしたの、その黒い顔、と笑った。
ふと、拳を見ると、デッサン鉛筆がこすれて真っ黒だった。
by asayubana
| 2016-05-21 08:30